社団法人
畜産技術協会



シープジャパン1996年4月号(18号)
羊毛の利用方法 3 −岩手県のホームスパン−
岩手県工業技術センター繊維研究室 佐々木 陽


 1.このごろ考えること
 国産羊毛の利用をテーマに、織物に関する話をしてきましたが、ホームスパンに代表されるような、原毛の古典的な使い方だけが、有効的な利用方法かどうか、もっと素材の特性を生かした活用の仕方があるのではないかということをこのごろ考えています。特に国産羊毛のように、量的、質的に外国産羊毛と直接椿性を比較したとしても、あまり大きな期待が持てない場合は、むしろ視点を変えてアイディアを練ったはうが、新しい有効利用の道が開かれるような気がしています。もちろん、織物やニットのような身につける衣料に加工されることは理想ですが、それ以外の利用方法も積極的に考える必要があるように思います。
 そうした自由な発想で出来たアイディアを持ち寄って、検討会を催す機会があっても良いかもしれません。しかし、そのためにはまず、羊毛の基本的な特性についての知識を学び、次に多くの情報を集めて素材を学習する必要があります。常識にとらわれない発想から、ユニークな生活用品が生まれるかもしれません。基本的には、衣料品に類するものと、繊維素材として取り上げる方法の二つが考えられますが、何か良いアイディアや活用方法がありましたらご提案ください。

 2.再度岩手のホームスパン
 とは言っても、やはり岩手県の場合はホームスパンの歴史を語らずに、国産羊毛の利用を述べるわけにはいきません。そこでここからは、日本の歴史的状況を背景に、「岩手のホームスパン」の経緯について、簡単に触れてみたいと思います。
 岩手県のホームスパンは明治初期に始まったと言われていますが、当時は官服用の毛織物の需要が非常に多かったため、農村における牧羊振興策も全国的に行われ、日本各地でめん羊が飼われていたようです。
 こうした背景をもとに、日本の毛織物産業が盛んになる一方で、農村工芸としての毛織物、すなわち「ホームスパン」も日本中で作られることになります。その導入方法については地域によって様々だと思いますが、岩手県の場合は、明治10年代に二戸郡福岡村に在住していたイギリス人宣教師が、地元民に整織法を伝えたのが始まりと言われています。
 大正期に入ってからは、民芸運動を契機としてさらに「ホームスパン」振興は進みます。しかし、第一次世界大戦が始まると、イギリスの対日輸出停止が生じて、原毛の輸入がストップするなど、原毛不足の深刻な経済問題を抱えることになります。
 そこで国内の羊毛自給体制が再度強化され、次々に新たな牧羊振興策が展開されることになるわけですが、先に失敗しているヨーロッパ式の大農場制から、農家がそれぞれの畜舎内でめん羊を飼う方式に代わっていくのもこの頃です。
 次の大戦を迎えた昭和14年、「国産羊毛の購買制限令」が出されてからは、自由にホームスパンを生産することが出来なくなってしまいます。軍需優先の統制経済の時代ですが、当時の岩手県のめん羊飼養頭数の変化を見てみますと昭和4年で1,188頭(527戸)、昭和14年で8,348頭(4,069戸)と、この期間10年で約8倍にまで増加しています。
 大戦以前は昭和5年から10年にかけてさかんにホームスパンの生産が行われていたようですが、昭和14年頃になると、スフ(ビスコースレーヨンスフのことで、広義には化繊の短繊維を綿紡績したもの)や繭毛羽などを混紡した糸しか手に入らず、本来の毛織物ホームスパンは製造出来なかったようです。
 この頃のホームスパンを知っている人は、決してホームスパンを高級織物と言いません。むしろホームスパンは素材の良くない、野暮ったい織物と認識されていたようです。原毛の代わりに粗雑な繊維や、ガラ紡(工場の落ち綿や布を再処理して綿紡績したもの)を使って織物にするわけですから、当然のことです。当時はこれが当たり前の状況だったのですから、現在の物と質を比較するのはちょっと酷でしょう。
 ホームスパンの代替品であった絹製ホームスパン(紡毛織物の風合いを持たせて作った絹織物)が登場するのものこの頃です。
 戦後になって本格的なホームスパンの生産が開始されたのは、昭和30年がすぎた頃か現在の日本ホームスパンのエ場らでした。


 3.及川全三氏のこと
 岩手のホームスパンの技術的な根拠が、イギリスのツイードを目標にしたものであったことは言うまでもありませんが、農村工芸としてのホームスパン技術をさらに高めた人物として、及川全三氏がいたことを知る人はあまり多くおりません。
 及川氏は明治25年に東和町((株)日本ホームスパンのある町)に生まれ、盛岡師範学校を卒業後東京で教諭をしていますが、昭和6年頃、東京杉並の梅原家(東和町のホームスパン作家)に同居していた折り、岩手から送られてきたホームスパン服地を見て非常に感激したということが伝えられています。
 これが、ホームスパンとの最初の出合いだとされていますが、その後自分で織物を製作したいと決心をし(この当たりの経緯についてはよく分かっていません)、家族を東京に残したまま単身、東和町に移ってホームスパンの研究を開始します。昭和9年の頃でした。
 及川氏の研究実績は昭和11年に発行された「羊毛本染色実験覚書」(岩手県教育委員会出版部発行)において明らかにされています。特に岩手県の植物を使った羊毛染色技術を念入りに検討したという点で当時かなり高い評価を受けたようです。
 さらに国画会会員でもあった及川氏が、農村工芸技術の向上に果たした役割のもう一つ重要な事実を忘れるわけにはいきません。それは後継者の養成です。
 昭和28年頃、福田ハレ(蟻川工房店主、蟻川紘直氏の母)、高橋マサ子(ホームスパン工房店主)、鈴木光子(織物講師、福祉事業でホームスパンを指導)らが、ホームスパンを学ぶべく、及川氏の実家である東和町安俵(あひょう)に住み込み、弟子をしていた時代がありました。
 手紡ぎの技法と天然染料による染色技術を中心に指導を受けていたようですが、特に染色前に酸性下で塩素処理(クロリネーション)する方法は強く教え込まれたようです。
 塩素処理は羊毛の表面を構成しているキューティクルの硬い層を溶解して削り取ってしまうために、染料の浸透性を向上させる効果があります。あまり質の良くなかった国産羊毛に対して効率の良い染料の発色を求めたのかもしれません。
 昭和29年1月6日の高橋さんのノートには「今日の染めは失敗、塩素処理が不完全らしく、渋木10%の染液に入れたときむらに染まったので、もう一度3%の塩素処理をし直し、渋木2匁を足して染め直した」とあります。
 当時20代になりたての彼女達は、数年間の弟子生活を終えた後、それぞれホームスパンに関わる仕事を続け、色々なかたちで岩手県のホームスパンを支えて行くことになります。
 及川氏は1985年10月92歳で永眠されましたが、氏が残した染色技術、ホームスパン技術が、今日のホームスパン業界の基礎を確実に築いたことは間違いありません。
 柳宗悦氏が及川氏に紹介した福田ハレ氏は昭和33年の「みちのくあかね会」設立に協力し、以後9年間技術指導を担当しました。現在はお弟子さんが作った「ハレの会」で後進の指導に努めています。
 鈴木光子氏は工房で制作活動をするかたわら、高校の織物指導講師をし、現在は地域おこしや福祉活動の一環として、ホームスパンの普及と技術指導を行っています。
 高橋マサ子氏も自らの工房で後進の指導に当たっています。
 しかしながら、及川氏の技術を受け継ぐ人がこうして現在もがんばっている一方で、いまだに彼の業績を評価するための資料の収集が全く行われていないことば、同じ県民として非常に残念なことです。
(岩手工業技術センター/TELO196−36−1115)
(つづく)




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